郷土史探訪:浦間茶臼山古墳
地元の小冊子に寄せられた文献を読んでみましょう。当時のことがうかがえる内容で興味深いです。
浦間を歩く 古墳を巡って
昭和51年12月15日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著
浦間の老人会20数人の方々が、国文化財指定の間茶臼山古墳の前方部の清掃作業をされた。雑木や雑草を取り除いたので、前方後円の形がいっそうはっきりしてきた。残りの後円部は、この古墳を造らせた家族の墓穴があるので、行政当局から手をつけてはいけないとの指示があったのは、やはり形がくずれるからだろう。
またお年寄りは矢印の立て札を立て見学者への便宜を試みた、さらに、その下で35本の桜の苗木を植えた。
稲づくりの方法が大陸から伝わったのは、今から1500年前と言われる。そこに土地を支配する者は鉄の道具を持ち、多くの人々に睨みをきかす。
それを「権力者」「豪族」と名づけている、現代から言えばこわい人と言えるが、反面、この人物は大衆を惹きつける魅力約なものを持っていたのだろう。彼は、自分の死後ここに葬られる意味と、こんな高い大きな築地に自己の権力を浦間に表現した。
茶臼山古墳は奈良にもあり、岡山でも他に2か所あるが古墳前期の古いものであって、専門書を読むと形・発掘物などに共通していることがわかった。
残念なことに、続いての中・後期と200年間次々と出来たが、全国にあるこれらのものがほとんど全部に近く乱獲され副葬品である鏃(やじり)、銅鏡、剣、石玉、甲冑など持ち去られてしまった。江戸時代に古墳荒らしをしていた者が捕って裁判をされた経過記録があり、貴承な古墳研究の史料だと読みつつ、墓をあばかなければならなかった往年の生活の苦しかった人をも考えてみた。
大正9年、京都帝大教授清野波次博士が浦間の古墳に人骨はないかと訪れている。その書「原日本人の研究」の中に「20年前大石槨に堀り当てて、多数の遺物を出したという。遺物の詳細は不明だが、銅鏃20個出たという話で、村民は数個所有している」とある、この地の人は、一の丸(後円部)、二の丸(前方部)、三の丸(今破壊されている)と呼んでいるところから考えると、この古墳はその後、城に利用されたことが考えるも誰が使ったのか記録が見当たらない。話題をかえよう。
万葉集に「小林に我を引きいれてせし一面を知らず家も知らず」という呼び人がわからない歌が載ってある。知らない人と交ったというのだが、現代人が考える性道徳とは違って、古代人は美しい人間行みと強めていた。
これを雑婚と言いなおしてよいが、この歌のように古代上道でも展開かされていたと書くのはだ弁であろうか。万葉集完成は734年で、それまで400年開全国から身分を問わずあらゆる階層の歌である。その当初がちょうど浦間の茶臼山古墳成立期の4世紀となるので、こんな想像をして試みたわけだ。「ふるさと」には一つの信仰がある。古老は古道を詮索することをタブーとしていた。つまり高貴の人の墓であるから不敬になるという。昔、ある日、突然春日さん(近くにある福岡神社)から突然、タイコやカネが鳴り響いた。それは、誰かがこの古墳をいらったのではないかという伝説が残っている。
浦間のKさんとTさんのご案内で近くの荒神さま(牛神社)に参る。歩道を「寺坂」と呼ぶのだが今は竹やぶになっている。次に剣(つるぎ)さんに着く。「でもの」をなおす神様というのでこのへんの方は鎌やはさみなどの切れ物をお供えしている。錆びているのはちろんだが郷土信仰の面影がうかがえる。荒神さんも剣城さんも円墳である。円墳は古墳時代の末期のものが多いが、仏教伝来とともに次第に姿を消した。
「この田んぼを、なめら屋敷といって神さまが通られるというのでここには家を建てない風習があります。」と指さされた。
また、説明によればこの地名に「ラントガバナ」「ジョウズガタ」「コンポウバナ」がある。鼻とか潟というのは、古代ここが海であったことがわかる。知らぬ間に北山という少し高い急な山のふもとに来てしまった。思い切って登りつめた山中に小さな円境二基を見つけた。上道の古墳はいくつかは知っているが、初めて見るような気がしてその喜びは忘れられない。
その一基の上に小さな瓦の社が目に浮かぶ。今ここを訪れる人はおそらくいないだろう。
「わしらの子のころは、よくここへ登りましてなぁ」と汗をぬぐいながら言われた。上道平野を望見すると、今さっき見たばかりと思った浦間茶臼山古墳が浅川団地の中からこちらを見上げているようで、平和に細長く横たわっていた。
出典 くみあいだより 昭和51年12月15日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著