夏本番
浦間茶臼山古墳を横目に蝉の幼虫が、土から沢山出てきています。
何年もの間、土の中で生涯のほとんどを幼虫として過ごし、殻を脱ぎ青空に飛び立つ瞬間というのは、どんな気持ちでしょうか。

土の中から外の世界へ一生懸命這い出てきたばかりの幼虫は、頭に土をくっつけたまま懸命に木の幹を登り、枝や葉っぱにしっかり掴まりカラを脱ぎます。木の根元から何匹もの幼虫が木の上の方へ向かって出てきていました。
羽化のときは無防備で、この時にハチやアリなどに襲われる可能性があるので、夕方から夜にかけて羽化することが多いのだそうです。
土の中にいて、外敵に襲われにくい時間がわかるというのも自然の摂理とはいえ、凄いものだと感嘆します。



太陽の光が薄緑色で透明感のある羽に射し始めると、黒くしっかりとした羽に変化し飛び立って行きます。
年々、夏が異常に暑くなってきています。早朝からセミの合唱を聴きながら、茹だるような暑さの始まりにため息が出そうになることも。ですが、目の前で起こる羽化は神秘的で感動させられ、しばし暑さを忘れました。
外界に出ると僅かな蝉の一生。精一杯楽しんで生きて欲しいと思います。




日本でも約1千万年前の地層からセミに似た化石が見つかっているそうです。古墳時代の夏は、どのくらい暑かったのか、昆虫はどのような種類がいたのか、色々と知りたいことがたくさんあります。

浦間茶臼山古墳は、濃い緑に覆われ夏景色です。

古代の自然と人びと
先史時代・歴史時代を通じて人の心のふるさと、あるいは文明や文化の誕生・展開はその地域の山や川、草原や森林などが織りなす自然景観と切り離して考え られない。そして、この自然的な景観を支え、育んできたのは気候で、地上の“目に見える”山や川、地表の状態だけが自然景観の要素ではない。4世紀に始まる古墳時代には、大和朝廷による全国支配がしばらく続き、7世紀半ばの大化の改新を出発点として律令時代が進んだ。4世紀には温暖な時代が 始まり、4世紀後半から6世紀初めにかけて短いて低温な期間があったが、その後、温暖化し、8-10世紀にピークをもつ「気候の小最適期」または、「気候 の小最良期」とよばれる大きな山をもつ温暖な時代となった。
この時代における大和政権の確立、平城京その他の建設、日本国内における地域社会の展開と集落の変遷は著しい。東南アジアや中国・朝鮮半島における興隆 とも並行性が認められる。これらの歴史的展開と変遷には、農林水産業の生産性を高め、集落形成や人びとの生活を支える良好な気候条件が必要であった。
古代の気候
弥生時代末の1世紀から2-3世紀と次第に昇温して、4世紀前半の温暖期を迎えた。その後、上述のように小さな寒冷期があったが、弥生時代の低温ほどで はなかった。古墳時代は平均して温暖とみてよかろう。ただし、尾瀬ケ原の記録では寒冷期のほうが顕著で、古墳寒冷期とさえよばれることがあるが、地域的な 差が大であったのではないかと思われ、この呼称は日本の全体にはあてはまらないと、みるべきであろう。しかし、6世紀初めまでの低温ははっきりしており、 巨大な前方後円墳の出現はちょうどこの寒冷期にあたる。
6世紀初めには温暖化し、その後、約100年続いた。平安時代の温暖さに匹敵するほどであった。大化の改新から約100年間は、すなわち、7世紀前半から奈良時代の初めまでは寒冷であった。いいかえれば、飛鳥時代はやや寒冷な時代であった。
崇神天皇の時代は6世紀末で、自然環境条件はよくなってきた。生産体制は順調な発展をとげ、徴税が始まった。これは国の政治体制の整備を意味する。ま た、灌漑のために依綱池(よりみのいけ)、軽の酒折池(かるのさかおりのいけ)を造った。しかし、一方では、疫病が大流行した。これは、都市部で人口の集 積があり、地域内交通がすでにかなりあったことを意味する。最初の広域流行病(感染症)の発生は縄文中期・晩期にあったことが知られており、その時の人口 減は食糧資源の減少と疫病の流行が原因とされている。したがって、大和朝廷としては、その影響が深刻なことはわかっており、総力体制でそれに対処した。
6世紀の場合、流行病の対策は以下のようなものであった。すなわち、人びとは各地の社(やしろ)で神に平皿(ひらさら)・楯と矛と布など(みてぐろ)を 献じた。これは、信仰が主体の行為で病理学的な対策ではないが、神社網を通じて地域的に情報を細かく、確実に伝達・収集する役割を果たしたとみられよう。
引用 バイオウェザーサービス