郷土史探訪 : 福岡神社 ①

地元の小冊子に寄せられた福岡神社に関する文献を読んでみましょう。

農協だより 昭和58年6月25日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著


福岡神社の縁起(起源、霊験などの言い伝え)が記されている物の内容を現代と対比しながら紹介したい。

長和五年8月27日、浅川村の夏空は、急に無り出し、言音が山野にとどろき、稲妻と共に車軸を流すような大雨が降った。そして平野には大洪水が起き、福岡山(福岡神社のある山名)の後ろの山中にも一つの大池ができた。(この池を今は「宮池」と呼ぶ)

ところでこの村の親俊という老人は、不思議な神通力により、物事を予断する術を心得ていた。
この老人が言うのに、「わしは、ある日、夢の中でえらい高僧に出合いおつげを受けた。それは『福岡山上にある石の上でやすんでいた鹿は、春日大明神がこれに乗って飛んで来られたのだ。老人よ。山の池に大木がある、この木でただちに仏像をつくってこの山に安置せよ』」と。(福岡神社は春日さんとも呼ばれている)

最初に記した長和五年は、藤原道長の時代で神仏混合の世である。つまり、仏教が本体(地)で、神(道)は仏の代わりになって衆生を救うというわけで、神社の建立の目的もそこにあった。

親俊の申す仏像というのは、結論的には次の5体をいう。

1、釈迦弁甘世尊
2、楽師如来
3、地蔵菩薩
4、観音菩薩
5、文珠師利菩薩

縁起には、この5体のそれぞれの功徳について仏教用語で表現されこまかく解釈するのは、ここではできないので関心のあるかたは別途ご研究を願うこととしたい。

ただ、いえることは、現実に5体が福岡神社の本殿に安置されている由を氏子の長老が話しておられたことを付記しておく。さらに伝説を続けたい。さきの親俊のほかに、浅川村に突然、狂女(巫女であろう)が現われ、親俊の夢は間違っていないと村人に触れた。

村人たちは、この話を信じ、総出で池の中の木を引き上げ、そして仏像を安置する仮の社も造った。ところが仏像をつくる仏師は、浅川に住んでいないので、どうしょうかと村人達が相談していたある日、親俊の家にふたりの旅人が立ち寄り、一夜の宿を乞うた。親俊は二人を泊めることにした。その夜「あなたがたは、どうして私の家へ宿る気持になったのか」などと問うているうち、ふたりは「われらは仏師である。ご希望があれば仏像をつくりましょう」という話になった。

ここで親俊は、「優曇華」(三千年に一度咲く花で、そのとき仏が世にでるといわれる)に出会った気持で、仏像の制作を依頼した。次の話がおもしろい。

仏師たちは、17日間で三尺ほどの五体をつくった途端、消えるように浅川を去ったという。人々は、この奇異なることに驚愕して、この仏師こそ「春日大明神」であると言じ、尊くありがたいものよと掌を合わせ祈った。

さて、それから、浅川近郷の村々まで倍心が広まり、老若男女総がかりで、山を刈り、木をひき、石をたたく作業がはじまり、神社をつくる専門の大工も雇い数日にして、三間、四面の社殿を造り上げ、五体を入れて弊帛(神前に供えるもの)などを捧げて恭敬し祭った。
そして、この神社にお願いすれば、なんでもかなえてくださるというので、都からも或いは辺鄙な土地からも地地位上下をかまわずお参りするようになった。この状況を縁起には一日々夜々歩を運ぶこと、雲のごと一のことし」と表現している。その後、保元四年(115年)平維盛が、最愛の娘が病気になったので、博士(占ない師)に問うと「山陽道に春日の宮(福国神社)があるので、ここにお願いしたら即座に平癒いたしましょう」というので、維盛は、神馬をひいて神楽をまわらせ、恭敬供養したので娘の病いは治った。維盛の喜びはこのうえもなく、お礼とご祈のために、五間四面の本社と十二間の神殿、鐘と十二の末社を作り、それらに、金銀をちりばめ珠玉で飾りあげたという。

以上、縁起の概略であるが、これを記した人は万治二年(1659年)、江戸時代の初期頃、信州生まれの安田市左衛門尉とあり、末尾に、池田光政が参拝した記事とともに、神社の荒廃をなげく神主のことばをあげている。また、光政などが神社復興のため寄進をしたという古文書も保管されているので、今後、これについても調査してみたい。



出典 農協だより 昭和58年6月25日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著