過去に学ぶ

古墳から見つかる出土品の中に武器や鎧があります。古墳時代以前、弥生時代の遺跡からは胴部分を守る木製の鎧が出土しています。古墳時代には腕や肩を守れるような形に進化し、甲冑は5世紀の古墳を代表する副葬品でした。
埴輪挂甲武人(群馬県太田市飯塚町)と呼ばれる武装した埴輪も見つかっています。

弥生時代に戦いが始まったのは稲作の成功によって、村に守るべき財産が生まれたということが第一。人々の生活に豊かさをもたらした米が、深刻な戦争という副産物を持ち込んでしまったと言えます。

出土した武人の埴輪を見てみましょう。

埴輪 挂甲武人』国宝・重要文化財


東京国立博物館での展示資料名であり、国宝指定名称は『埴輪武装男子立像』である。『挂甲武人』となる場合もあり、「武装人物埴輪」または「武人埴輪」とも呼ばれる。

群馬県太田市飯塚町(旧新田郡九合村)の長良神社境内で出土した。1958年(昭和33年)2月8日付で重要文化財に指定、1974年(昭和49年)6月8日付で国宝に指定された。

その後、修理箇所が経年劣化してきたことから、2017年(平成29年)から2019年(令和元年)までの2年間、バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチの文化財保護プロジェクトから助成金を受けて解体修理が行われた。古墳時代後期の武器武具が巧みに表現されており、当時の東国武人の武装のようすを知ることができる貴重な考古資料である。

出典・引用 Wikipedia



埴輪 短甲の武人


短甲たんこうの武人」と呼ばれる埴輪です。埴輪とは、3世紀から6世紀の古墳時代に権力者の墓の上や周りに立て並べられた、土で作られたものをいいます。出土場所:埼玉県熊谷市上中条 中条古墳群

この埴輪は短甲、つまり上半身を覆うよろいをつけ、頭には兜を被った戦う人の半身像です。シンプルな表現ですが、当時使われていた武具の特徴をよく表しています。たとえば実際の短甲は、幅が広い鉄板を何枚か組み合わせたものですが、この板の境目が、埴輪の鎧にも線で表されています。当初はこの板同士を革紐で閉じ合わせていましたが、後に鋲で留めるようになりました。埴輪に丸い粒で表現されているのがこの鋲留めです。肩には、鎧をとめるためのストラップも表現されています。
また、兜のてっぺんから額にかけて、衝角しょうかくという尖らせた部分が表現されています。

東京国立博物館には同時代の鉄製の武具も所蔵されていますので、実際のよろいや兜とぜひ見比べてみてください。 太い首には首飾りをつけ、左の腰には刀をさげています。腕や耳は欠けていますが、落ちくぼんだ目、とがった鼻やあご、わずかに開いた口は、単純化されていながらも、どこか生々しさを感じさせます。よく見ると、真正面ではなくわずかに左に首を向けているのがわかります。周囲に異常がないか目を配っているのでしょうか。古墳時代中期の武人の姿を伝える貴重な資料です。

この作品はまた、1940年に開催予定であった幻の東京オリンピックのポスターに採用されたことでもよく知られています。




出典・引用 国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/



8月6日の「原爆の日」平和記念式典で広島県知事が挨拶の中、鳥取県青谷上寺地遺跡から出土した人々の骨に当時の争いの殺傷痕跡を見て感じたことに触れていました。

2024年平和記念式典/広島県知事挨拶一部抜粋

先般、私は、数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地あおやかみじち遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは、頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました

翻って現在も、世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です。[…]

挨拶全文→

引用 中国新聞デジタル







古代からの歴史を辿れば、鳥取県青谷上寺地遺跡の「遺棄された多量の受傷遺体」(鳥取県教育文化財団・鳥取県埋蔵文化財センター編 2002年)が示すような大規模な殺戮行為が起きていたことも頷けます。

現代においても世界のどこかで、民族・宗教・政治・領土などが原因となっての戦争は未だ止むことがありません。歴史の中には現在へ続く重要な道標があります。戦争を振り返ることの多いこの時期、改めて平和について考えてみたいものです。