古代の歴史に触れる場所

古墳時代3世紀後半〜7世紀初頭まで日本各地に大きな墳丘をもつ墓が作られました。

そのうちのひとつ浦間茶臼山古墳は砂川と吉井川に挟まれた沖積平野から離れた低丘陵地にあります。古墳の東・南は団地造成時に掘削され、前方部は現在、桜が植わり後円部は藪が茂り墓地が作られて変形が著しくなっています。

浦間茶臼山古墳



石棺に使われていた大きな岩を当時どのようにしてここまで運んできたのか。

これは誰しも考える疑問です。岩を調べればどこの産のものかがわかりますが、浦間茶臼山古墳の場合、竪穴式石室に使われていた安山岩の石材は、香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたものと推測されています。

当時、重量物の運搬に陸路を辿ったとは考えにくいので当時は古墳の近くまで海岸線があったのでしょうか。岡山県の古地図を調べてみると「⚫︎⚫︎島」と地名についている場所は本当に島だったところがあるようです。また地名にさんずいへんがついている漢字が使われている場所は水辺が近かったからとも言われています。

それにしても現在のような高性能な道具・機械など存在しない当時「どうやって巨大な岩を切り出したのか」「どうやって船に乗せたのか」「どうやって陸路を辿り現場まで運んだのか」。推測はしてみても実際にそれを見たわけではないので現代の人間には想像の域を出ません。

そして 何故このような大型古墳を作る必要があったのか?

当時の豪族はお墓の大きさで人々に権威を示し支配していたことから、支配者である首長と被支配者である民衆との関係はどうだったのか。また農業が盛んになり余剰生産物を蓄えるようになると争いも起こります。
古代歴史の中には現在へ続く重要な道標があり、それを学ぶことでより理解を深めていくことが出来ると考えています。


多くの「何故?」「どうやって?」。
未だ謎多き古代人の生活や歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


浦間茶臼山古墳 全景航空写真

2023年2月19日撮影

浦間茶臼山古墳全景航空写真




1984年3月8日撮影

浦間茶臼山古墳全景航空写真1984


出典 1991年2月 浦間茶白山古墳発掘調查团 真陽社



墳丘測量図

浦間茶臼山古墳測量図

浦間茶臼山古墳案内板


岡山市教育委員会 墳丘測量図





▪️所在地:岡山市東区浦間淺川
▪️墳 形:前方後円墳 ( 後円部3段築成 )

▪️規模:墳長約 140 m、後円部径約 80 m、後円部高約 14 m、前方部長約 60 m 主体部:竪穴式石槨 ( 長約 7 m、幅約 1.2 m)、割竹形木棺

▪️出土物:特殊器台形埴輪、細線式獣帯鏡、銅鏃 19、鉄鏃 42、鉄刀、鉄剣、鎌、鍬先、鑿、錐、 鉄斧、鉇、刀子、銛、ヤス、小札状鉄板、(伝 ) 朱、鏡、勾玉、銅鏃 20 数点 、鉄器多数

▪️調査等:1900( 明治 30) 年頃 石槨盗掘される。多数の遺物が出土という。
     1969( 昭和 44) 年頃 宅地造成により破壊の危機
     1983( 昭和 58) 年 宇垣匡雅氏らによる測量調査
     1988( 昭和 63) 年 発掘調査 ( 浦間茶臼山古墳発掘調査団 ・団長 近藤義郎 )



▪️1974 年(昭和49年)11月25日に国指定史跡となりました。

出典・引用  宇垣国雅「吉備の前期古墳1I、浦間茶臼山古墳の測量調査」『古代吉備」第9集1987年




出典 浦間茶臼山古墳と古墳の出現



浦間茶臼山古墳 竪穴式石槨全景




出典 1991年2月 浦間茶白山古墳発掘調查团 真陽社



浦間茶臼山古墳 出土副葬品



出典 浦間茶臼山古墳と古墳の出現






出典 1991年2月 浦間茶白山古墳発掘調查团 真陽社






浦間茶臼山古墳(うらまちゃうすやまこふん)は、岡山県岡山市東区浦間にある古墳。形状は前方後円墳で国の史跡に指定されている。


古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられている古代吉備最古の大型前方後円墳の一つである。全長は約138mで、前方部は長さ約61m、後円部は径約81m・高さ約13.8m。前方部は畑として開墾され、現在は桜が植えられて公園となっている。後円部は竹藪と北側に墓地がある。古墳の東側と南側には住宅団地が迫っている。

古墳は本来の姿から変形しており規模は推測の域を出ない。前方部が北東を向き頂部は後円部頂部より約4m低くなっている。前方後円墳としては最古の形式であり、奈良県桜井市にある箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似しているとの指摘もある。

後円部は3段となっていることが確認できる。頂部は平坦であり中央に乱掘坑が残っている。前方部は前述のように畑として削平されているため何段になっていたのか不明である。墳丘には角礫による葺石が確認されており、都月型円筒埴輪の破片が採取されている。

1988年に岡山大学教授近藤義郎を団長に発掘調査が行われた。後円部の乱掘坑を掘り下げると、深さ2.5mの位置に板状の安山岩を積み重ねた内法の長さ7m・幅1.2mの竪穴式石室が検出された。この安山岩の石材は、香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたものと推測されている。

石室の上部は破損しており赤色顔料が含まれた粘土が敷かれた床部から、割竹形木棺が納められていたと推測されている。明治時代に盗掘され副葬品は概ね持ち去られていた。しかし、細線式獣帯鏡片、銅鏃・鉄鏃・鉄刀・鉄剣など武器類、鎌・鋤先など農具類、鉄のみ・鉄斧など工具類、ヤスなど漁具類が出土した。
前方部の南東に陪塚と思われる大型の円墳があったが宅地造成の際に破壊されている。

造営時期は奈良県桜井市の箸墓古墳、京都府木津川市の椿井大塚山古墳、奈良県天理市の黒塚古墳などとともに出現期古墳と総称される。なお、浦間茶臼山古墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳は箸墓古墳のちょうど2分の1に企画された前方後円墳である可能性が高いと考えられている。



引用  ウィキペディア







日本史のことを知りたいと思った時には歴史資料集があると便利です。
図説日本史通覧(帝国書院)は高校生が大学受験の時などに利用する資料集ですが、手元に置いておくと興味深い内容が多くそこからまた詳しく調べていくと世界が広がります。

その中の「古墳の変遷と分布ページ」には3世紀後半・出現期の代表的な古墳として浦間茶臼山古墳が掲載されています。このことからも浦間茶臼山古墳の歴史的価値がわかるというもの。日本国内の多くの古墳の歴史と合わせて学んでいくことで、より深い知識と理解を得ることが出来るのではないでしょうか。






出典・引用 図説日本史通覧




浦間茶臼山古墳の築造された時代 古墳時代前期

浦間茶臼山古墳築造時代表




出典・引用  岡山市埋蔵文化財センター





岡山県埋蔵文化財発掘調査報告について


1997年〜1998年、岡山バイパス工事や岡山浄水場建設工事に伴い浦間茶臼山古墳近隣の高下遺跡・楢原古墳群・浅川古墳群・根岸古墳・寺山7号墳・8号墳などが発見されました。
その際に埋蔵品の発掘調査をした資料が建設省岡山国道工事事務所・岡山県教育委員会によりまとめられています。興味深い内容ですのでぜひご覧ください。