岡山市寺山・内ケ原地内所在の遺跡群について


岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118に岡山県東部吉井川流域に存在する遺跡群についての記述がありました。興味深い内容ですのでこちらに引用転載させていただきます。

吉井川



地理的・歴史的環境


大日幡山城ほか関連遺跡(以下、関連遺跡)は、岡山市寺山・内ケ原地内に所在する遺跡群である。 岡山県下には、中国山地内に源を発する旭川をはじめ吉井川・高梁川といった三大河川が南流して瀬 戸内海に注いでおり、岡山県南部に肥沃な沖積平野を形成している。

その中でも吉井川の流域は、以前の高瀬舟の往来からもわかるように全体的に流れが緩やかで、特 に下流部分にあたる岡山市東部や長船町・備前市の西部といった千町平野の付近は、丘陵部の標高が 海抜100mぐらいから200mまでと比較的なだらかで、山麓の平地には実り豊かな氾濫平野が広がっている。

関連遺跡のある大日幡山付近の当該地区の平地部分は、吉井川の数次にわたる氾濫によって形成された低地と自然堤防に明瞭に分けられ、地形的には集落が形成される安定した微高地は認められない。 当時常に安定した土地は、山麓に形成されたわずかな扇状地に限られていたようである。現在の地名の沼や平島といった字名からも、こういった自然地理的状況の名残を理解することは難しくないであ ろう。

遺跡位置図


現在、関連遺跡が立地している大日幡山付近は、現在の地名でいう岡山市寺山と内ケ原・浅川・楢 原・オ崎の各地区にまたがっているが、かつては古代の律令制施行以来、近世にいたるまで備前国にあって、その郡名は近年まで上道郡と称していた。

では、大日幡山の付近でいかなる歴史的発展が見られたであろうか。当該地区の付近において旧石時代の遺構・遺物は、現在のところ確認されていない。

また、近隣では大日幡山南側に位置する岡山市百枝月の西畑地区から柳葉形の石槍の一部が出土しているのみである。 縄文時代になっても遺構・遺物の状況・傾向は変わらない。周辺部に集落の痕跡は、現在のところ確認されていないが、前期では岡山市沼貝塚、 後期では竹原貝塚が山麓部に形成され、よう やく人々の生活の痕跡がみられるようになる。


また間接的な遺物ではあるが、岡山市浦間に立地する浦間茶臼山古墳の石櫛の棺床粘土中から縄文時代のものと思われる石鏃が 3点出土している。 これらのことから大日幡山近辺での縄文時代以前の生活活動は、比較的緩やかな丘陵部分に限られ、集落の存在を思わせる遺構群の発見は、難しいのではないだろうか。

しかし弥生時代になると、前代までの山麓部分の僅かな扇状地地形に加え、平地上にも 集落形成の萌芽が認められるようになる。近年発掘調査が行なわれ、当該地区の集落形成 の初現と思われる岡山市西祖の西祖山方前遺跡や西祖橋本(御休幼稚園)遺跡から弥生時代中期後半から後期末の遺構・遺物が確認されている。

さらに浦間茶臼山古墳の墳丘盛土の中からも後期の土器片が数点出土していることからも、一定規模の集落形成が十分考えられる。また大日幡山南麓部のオ崎地区には、地点が特定できないが銅剣・銅 矛をはじめとした青銅器が多数出土しており、南側の徴高地上に立地する高下遺跡等との関連性も含め、山麓南側にも大規模な集落の立地が考えられる。

古墳時代前半期になると、当該地区ではまず突如として浦間茶臼山古墳が築造される。浦間茶臼山古墳は、海抜25mほどの低丘陵地に築かれた県下では最古にして最大の前方後円墳で、昭和63年には発掘調査が行なわれている。

その後、吉井川右岸においては一層の定住化が進んだのか、大日幡山の山上には、茶ノ子山古墳や角山東塚古墳、内ケ原古墳群、浅川古墳群など大小に関わらず、多種の古墳が築成されている。茶ノ子山古墳は発掘調査はされていないが、墳長約25mの造出を持たない前方後円墳で、後円部の項部に竪穴式石榔が築かれている。調査例としては、銅鏡や筒形銅器が出土した。

浅川2号墳・3号墳や、直刀をはじめ、多くの金属器が出土した佐古山古墳などがあるが、これらわずかな資料で当該地区の概要を知ることは困難である。しかし近年では、岡山市竹原の高下遺跡の発掘調査が実施され、弥生時代後期から継続する比較的大規模な集落の存在も判明しつつある。

古墳時代も後半期になると、古墳の築造数が大幅に減少する。規模の大きなものでは、寺山 7号墳・ 8号墳の東側に位置し、横穴式石室を有する角山西塚古墳や岡山市吉井に立地する全長約30mの前方後方墳の石津神社裏山 2号墳がみられるに留まっている。特に大日幡山の山上は、戦後のプドウ畑開墾等によって多くの古墳が破壊されたとしても、吉井川左岸の比較的遺構密度の高い状況とは全く異なる展開を示している。

古代の当該地区は律令制の施行に伴い上道郡内に含まれたが、奈良時代以降は特に目立った遺構・ 遺物は検出されていない。しかし、唯一岡山市吉井の吉井廃寺の一部が岡山市教育委員会によって試掘調査され、西門およぴ築地の甚壇と推定される遺構の一部と、平城宮式の瓦や緑釉陶器などの遺物 が出士している。この吉井廃寺は吉井川が平野部に流れ出る地点に位置しており、その詳細な実像はなお不明ながらもこの付近が当時から重要な拠点であったことは十分に理解されよう。

遅くとも平安時代末期の大日幡山の山麓は、立荘記事・地域からみても福岡荘の荘域に含まれていたものと推定ざれる。地理的には、大日幡山の対岸に邑久郡長船町の備前福岡遺跡が立地しており、昭和59年度の町教育委員会による確認調査において、柱穴・溝等の遺構をはじめ、備前焼などの遺物が多数出土している。

今日では備前福岡遺跡が著名な福岡市の故地であることは衆目の一致するとこ ろであろう。福岡市は、吉井川の水運能力を背景として、また中世には山陽道の経路が福岡荘の北辺部を通過するようになったことによって、当時の西日本有数の商業都市として発展を遂げていった。

このように経済的地域基盤が整備されることは、軍事的にも重要な地点となることでもある。現在、 吉井川の西堤防上と東河川敷に一部分が残っている福岡城から半径 2kmの範囲内に見える中世期の山城は、遺跡地図に記載されているだけでも6ケ所を数える。時期は各々異なり、一概には言えないが、この地の経済的基盤を背景とした軍事的にも重要な拠点であったことを示しているものと考えられる。

大日幡山城も出丸を含め地域的重要性とあいまってつくられたと言えるであろう。

しかしこのように繁栄を極 めた大日幡山の山麓地ではあるが 、 大永年間 (1521年〜1528年) と 天正 19年 (1591年)の洪水によって、福岡市の大半は流出したことが今日知られている。

戦国時代の後半期には、宇喜多秀家の台頭によって政治経済の中心は現在の岡山市街地に移り、江戸時代には城下への街道筋として整備がなされ、明治以降、各村々が合併して上道町を形成し、近年岡山市と合併して今日に至っている。


(1) 岡山県企画部土地対策課 『士地分類甚本調査 和気・播州赤穂』 1982年 3月岡山市市役所『上道町史』 1973年3月
(3) 木村幹夫「岡山県上道郡竹原貝塚について」『吉備考古』第87号 1953年12月
(4) 浦間茶臼山古墳発掘調査団 『 岡山市浦間茶臼山古墳 』 1991年 2 月
(5) 岡山市教育委員会『西祖山方前遺跡西祖橋本(御休幼稚園)遺跡発掘調査報告』1994年 3月 (6) 地元の間き取り調査による
(7) 近藤義郎編『前方後円墳集成中国・四国編』 1991年 2月
(8) 岡山県教育委員会『岡山県埋蔵文化財報告』 21  1991年3月
(9) 鎌木義昌『岡山の古墳』(岡山文庫 4) 1964年10月
(10) 国立歴史民俗博物館「日本荘園データ」 2『国立歴史民俗博物館資料調査報告書』 6  1995年 3月

(11) 長船町教育委員会『長船町埋蔵文化財分布地図』 1987年 3月
(12) 藤井駿編『吉井川史』 1967年1月


出典・引用  岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118