岡山浄水場建設工事に伴う発掘調査
岡山県と流域の関係市町は岡山県広域水道企業団を結成し、水資源の有効利用を目的として岡山市東区寺山地区に調整池を建設することを計画しました。
その際、埋蔵品の発掘調査をした資料が建設省岡山国道工事事務所・岡山県教育委員会によりまとめられています。その中で、浦間茶臼山古墳近隣の寺山7号墳・8号墳について一部引用抜粋させていただきました。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書はpdfをダウンロードしてご覧になることができます。
目次
発掘調査の対象地
平成 9年(1997年)、岡山県広域水道企業団は、広域交通網の整備によって西日本の新しい中核拠点として発展している岡山県の将来の水需要に対し、水質・水量共に安定した水道用水を広域的に供 給するための事業を進めています。
本県の三大河川のひとつである吉井川において、現在、建設省の直轄事業として建設さ れている「苫田ダム」等の水資源を有効に利用するため、岡山市寺山地区において吉井川からの取水施設およぴ浄水施設(岡山浄水場)をこの3月に完成させ、あわせて、そこからの送水施設の整備も推進しています。
今回の発掘調査の対象地は、岡山浄水場の西約somに位罹する丘陵地であり、将米、 2ガ3,000面の水を貯える鋼製タンク 2碁を備える岡山調整地の計画敷地です。 岡山浄水場で浄化処理した水を、平成 1年の春には、この岡山調整池を通って岡山市(西大寺)、山楼町、赤坂町、吉井町、佐伯町、和気町へ送水を開始する予定です。
この計画敷地およびその周辺に山城跡ならぴに古墳が分布しているため、発掘調査を岡山県教育委員会に委託しました。その結果、山城跡は大日幡山城の出城跡と判明し、古墳からは円筒埴輪や刀等の鉄製品が出土するなど貴重な成果を上げられました。平成 9年(1997年) 3月
出典・引用 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118
寺山7号墳・8号墳発掘調査状況
今回調査を行なった寺山古墳群は、大日幡山の山項から束にのぴる南北 2つの支丘上に位躍してい る。そのなかでも寺山 7号墳・8号墳は南側支丘の海抜70m付近、墳丘墓と考えられる寺山 9号墳は 同じ支丘上の海抜87m付近にそれぞれ立地している。出典・引用 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118
※調査後消滅
寺山7号墳出土品 埴輪
出典・引用 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118
7 号墳の埋葬施設内からは、直刀・鉄鏃・馬具・棺釘を含む鉄製品が多数出土した。また南西部の周堀内から須恵器や士師器が、また北側の周堀・墳丘上から円筒埴輪片が出土している。
寺山7号墳出土品 刀・鉄器
出典・引用 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118
地理的・歴史的環境
大日幡山城ほか関連遺跡(以下、関連遺跡)は、岡山市寺山・内ケ原地内に所在する遺跡群である。 岡山県下には、中国山地内に源を発する旭川をはじめ吉井川・高梁川といった三大河川が南流して瀬 戸内海に注いでおり、岡山県南部に肥沃な沖積平野を形成している。
その中でも吉井川の流域は、以前の高瀬舟の往来からもわかるように全体的に流れが緩やかで、特に下流部分にあたる岡山市東部や長船町・備前市の西部といった千町平野の付近は、丘陵部の標高が 海抜100mぐらいから 200mまでと比較的なだらかで、山麓の平地には実り豊かな氾濫平野が広がっている。
関連遺跡のある大日幡山付近の当該地区の平地部分は、吉井川の数次にわたる氾濫によって形成さ れた低地と自然堤防に明瞭に分けられ、地形的には集落が形成される安定した微高地は認められない。 当時常に安定した土地は、山麓に形成されたわずかな扇状地に限られていたようである。現在の地名の沼や平島といった字名からも、こういった自然地理的状況の名残を理解することは難しくないであろう。
現在、関連遺跡が立地している大日幡山付近は、現在の地名でいう岡山市寺山と内ケ原・浅川・楢 原・オ崎の各地区にまたがっているが、かつては古代の律令制施行以来、近世にいたるまで備前国にあって、その郡名は近年まで上道郡と称していた。では、大日幡山の付近でいかなる歴史的発展が見られたであろうか。当該地区の付近において旧石器時代の遺構・遺物は、現在のところ確認されていない。また、近隣では大日幡山南側に位置する岡 山市百枝月の西畑地区から柳葉形の石槍の一部が出土しているのみである。
ーーー中略ーーー古墳時代前半期になると、当該地区ではまず突如として浦間茶臼山古墳が築造される。浦間茶臼山古墳は、海抜25mほどの低丘陵地に築かれた県下では最古にして最大の前方後円墳で、昭和63年には 発掘調査が行なわれている。その後、吉井川右岸においては一層の定住化が進んだのか、大日幡山の山上には、茶ノ子山古墳や角山東塚古墳、内ケ原古墳群、浅川古墳群など大小に関わらず、多種の古墳が築成されている。
茶ノ子山古墳は発掘調査はされていないが、墳長約25mの造出を持たない前方後円墳で、後円部の項部に竪穴式石榔が築かれている。調査例としては、銅鏡や筒形銅器が出土した。
浅川 2号墳. 3号墳や、直刀をはじめ、多くの金属器が出土した佐古山古墳などがあるが、これらわずかな資料で当該地区の概要を知ることは困難である。しかし近年では、岡山市竹原の高下遺跡の発掘調査が実施され、弥生時代後期から継続する比較的大規模な集落の存在も判明しつつある。古墳時代も後半期になると、古墳の築造数が大幅に減少する。規模の大きなものでは、寺山 7号墳・ 8号墳の東側に位置し 、 横 穴 式 石室を有する角山西塚古墳 や 岡山市吉井に立地する全長約 30mの 前方後方墳の石津神社裏山 2号墳がみられるに留まっている。特に、大日幡山の山上は、戦後のプドウ畑開墾等によって多くの古墳が破壊されたとしても、吉井川左岸の比較的遺構密度の高い状況とは全く 異なる展開を示している。
ーーー後略ーーー註
(1) 岡山県企画部土地対策課 『士地分類甚本調査 和気•播州赤穂』 1982年 3月(2)岡山市市役所『上道町史』 1973年3月
(3) 木村幹夫「岡山県上道郡竹原貝塚について」『吉備考古』第87号 1953年12月
(4) 浦間茶臼山古墳掘調査団 『 岡山市浦間茶臼山古墳 』 1991年 2 月
(5) 岡山市教育委員会『西祖山方前遺跡西祖橋本(御休幼稚園)遺跡発掘調査報告』1994年 3月 地元の間き取り調査による
(7) 近藤義郎編『前方後円墳集成中国・四国編』 1991年 2月
(8) 岡山県教育委員会『岡山県埋蔵文化財報告』 21 1991年3月
(9) 鎌木義昌『岡山の古墳』(岡山文庫 4) 1964年10月
(10) 国立歴史民俗博物館「日本荘園データ」 2『国立歴史民俗博物館資料調査報告書』 6 1995年 3月
(11) 長船町教育委員会『長船町埋蔵文化財分布地図』 1987年 3月
(12) 藤井駿編『吉井川史』 1967年1月
※調査後消滅した古墳寺山7号墳
寺山8号墳
寺山9号墳
楢原遺跡
楢原1号墳
楢原7号墳
楢原墳墓・散布地など
出典・引用 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告118
詳しい資料がご覧になりたい方はこちらから
▪️高下遺跡・浅川古墳群ほか・楢原古墳群・根岸古墳.pdf
▪️寺山古墳群・大日幡山城出丸跡.pdf 他