郷土史探訪:福岡神社 ②


地元の小冊子に寄せられた福岡神社に関する文献を読んでみましょう。

農協だより 昭和58年8月25日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著


前号で神社の縁起巻物の内容を紹介させていただいたが、この中から筆者自身が神社を実際に見た感じを一部披露いたしたいので、ご批判をお願いしたい。

まず、神社裏の宮池であるが、これは長和五年(1016年)の大雨で大池ができたと縁起にある。これは、当時、突然にできたものでなく、縄文・弥生時代にかけて農耕(特に稲)の発展する時期にこの辺りの古代人が田畑の水の確保に池をつくったものと思われる。その後、修復架設し現代に至り、上道平野の水資源の一部となった。

次に、神社の形態であるが、高床式で地面との間は通風性が保たれているのは、昔の米の倉庫を示している。古代人は米の貴重性を尊び一部をここに奉納の形で納めたとみる。それが、神道の発達に伴い、本殿、幣殿、拝殿という建て方になった。
それから、奉納されている「鹿」の額絵であるが、これは珍しい。縁起によれば、天津児屋根命が鹿に乗ってこられたとある。この神様は、四季のうちでも春の自然を与えてくださる恵みの神だった。この神社には春日大明神を奉るといういわれがここにある。また、山を三笠山と称するが、これは奈良の三笠山(藤原氏の氏神を祭っている)と関連しているのではなかろうかと縁起から推察する。

いずれにせよ、鹿は石器人の食糧であり、その角で釣り針などを作ったことが全国各地の発堀でわかった。
ところで「福岡神社」の福岡、の名称だが、上道郡史によれば境内の山名より起これるとあり、つまり、三笠山の一部が福岡といわれていたと解釈したい。氏子の地域は、浅川、西祖、寺山、矢井、浦間である。お隣りにある「石津神社」は吉井、福岡、一日市の地域の氏神となっている。

また、このあたりは、実に大小の古墳群がみられ、この山も古墳であると故木村幹夫氏が語っておられたし、戦国時代は当然、山城であったと私は観察している。

次に「絵馬」を語りたい。寛政七年(1791年)の作だが、枠組は、けやきを使ったすばらしい作品である。ところで、古代では洪水のときに白馬、日照では雨乞いのため黒馬を神社に奉納していたが、それが藁作りの馬、そして絵の馬に変化していった。祈りに「五穀豊穣・家内安全」ということばがあるが、馬、にわとりは農耕生産にとって神秘的なまじないの動物の存在として人々の心をとらえていた。

10月が訪れると秋祭りが各地に行なわれている。写真にみる額絵「神事」は文久二年(1862年)8月27日の作品が掲げられているのに注目したい。
西祖の南宗画家、橋本松陵(1871年〜1939年)が昭和3年6月の神社修復の際にこれに着色され、鮮明で確実な当時の行事を文化財として後世に残されたのである。神社の階段には鉄砲を肩に持つ行列、次は槍の組、春日大明神と書いた旗を持つ人、そして”しし舞い”、榊の木をかつぐ子ども、奴姿の人々、”みこし"と現代ではとても見られない。おそらくこの後には武士団がいたと想像されるが、行列内容の変化があったとしても今から70有余年前に、この盛大な行列は御休から姿を消したという。

境内に末社として驚宮、国主神社、八王寺宮、姫宮、若宮、稲荷神社がある。これは近辺の神社を一括して安置されたのだが、こういう形態の神社を「惣社」と呼ぶ。おそらく、参拝するのに便宜の良さをはかったことも考えられる。



最後に池田藩主と福岡神社を記したい。縁起によれば、池田光政の修造の記事があるし、筆者が神社を調査した際、細長い板に墨筆があるのを見た。
「頭主、松平四位侍造、原文公、御部代街に光田落まと福岡科料を記したい。縁起によれば、池田光政の修造の記事があるし、筆者が神社を調査した際、細長い板に墨筆があるのを見た。
「願主、松平四位侍従、源斉政公、御郡代薄田長兵衛、寺社奉行、波多野」
この源斉政は、池田光政から五代目の藩主池田斉政である。斉政は寛政6年から文政12年の間の藩主で天保4年死亡している。こうしてみれば、池田藩との関係も推測できるし、話によれば、戦前、県の社寺兵事課長なども来社している由。

8月7日は盆おどりで、その日は珍らしく雨曇りだったが、神々や先祖の魂振りが見えるような夏の一夜といえよう。



出典 農協だより 昭和58年8月25日 岡山市上道中学校教諭 竹田稔 著