箸墓古墳と百舌鳥古墳群/視察 ①
浦間茶臼山古墳保存会【第一回研修旅行】
令和6年7月20日(土)、保存会及び地域希望者の方々にて箸墓古墳と百舌鳥古墳群を視察してまいりました。
お天気も良く堀に囲まれた風格ある箸墓古墳を見ることが出来ました。陵墓地のため宮内庁により立ち入り禁止になっているので木々が豊かに茂り大きな森にしか見えません。
周濠を一周すれば季節毎の風景を楽しめることでしょう。
実際に見るとその大きさが実感出来、また周囲の風景も含めて全体を眺めると文献だけで知っていたことを自分なりに考えて吟味することの大切さが理解出来ます。
箸墓古墳後円部から出土した土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に供献された大型土器があります。岡山県の弥生時代末期とみられる墳墓などでも多数発見されていますので、ヤマト政権に吉備地方の勢力が大きく関わっていた可能性が高いです。
箸墓古墳 外表施設・遺物
岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。
引用 Wikipedia
考えてみて下さい。その当時、大型の特殊器台を割れないように吉備から奈良まで運ぶことがどれほどの労力であったことか。交通網が発達した現在でも岡山から奈良県桜井市まで高速道路を使って3時間近くかかるわけです。
手持ちで運んだとは思えないので台車のようなものを使ったのでしょうが、当時の台車を作る技術、整備されていない道と考えると我々の想像を遥かに超えた労働であったことは否めません。
箸墓古墳
邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳は、我が国最初の巨大古墳として知られ、現在は倭迹迹日百襲姫命の大市墓として宮内庁で管理されています。 箸墓古墳は3世紀始めごろに出現した当時国内最大の集落跡、纒向遺跡にある全長約276mの巨大な前方後円墳で、当時としてはもちろん、我が国最大の墳墓です。
墳丘は前方部4段、後円部5段の段築で墳丘表面には葺石が積まれ、後円部墳頂やその付近から吉備地方と同型式の特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪が採集されています。(1976年)又、前方部頂上部やその付近からも、底部に穴の空いた複合口縁の壺形土器が採集され、1992年の前方部南側の調査の結果では、この古墳は大半の封土を盛土した可能性が高いことが判明しています。
周濠については幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性あり、外堤の所々には渡り堤が築造当初からあったと考えられています。埋葬施設については墳丘裾部分で板石が散見される事より、竪穴式石室と思われます。又出土遺物につきましては陵墓指定地外の調査で出土したものとしては、木製輪鎧(4世紀初め)等の木製品、土器破片及び宮内庁によって採集された特殊壺形埴輪と特殊器台型埴輪等があります。
築造年代につきましては研究者により様々ですが、後円部墳頂の埴輪及び周濠部等から出土の土器の型式及び墳丘の形態より、3世紀中葉ないし中葉すぎと思われます。
引用 奈良県桜井市観光協会公式HP
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
奈良県立橿原考古学研究所に付属する博物館の所蔵品はとても豊富で見応えがあります。特に吉備地方とも関係が深い「特殊器台」「陶棺」は大きさも含め見事なものです。
三輪山にある大神神社 にもお参りしてきました。
大神神社について
三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山です。古来、大物主大神が鎮まる神の山として信仰され、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山、三諸岳(みもろだけ)と記されています。高さ467メートル、周囲16キロメートル、面積350ヘクタールのお山は松・杉・檜などの大樹に覆われて、一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれています。
特に杉は『万葉集』をはじめ、多くの歌集に詠われ「三輪の神杉」として神聖視され、後世に三輪山の杉葉で造られた杉玉が酒造りのシンボルとして酒屋の軒先に飾られるようになりました。また、山中には神霊が鎮まる岩が点在し、磐座(いわくら)と呼ばれて信仰の対象となっています。神社の古い縁起書には頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座には大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮まると記されています。
引用 大神神社公式HP
箸中大池の遊歩道に『日本書紀』にある崇神天皇が読んだ歌の歌碑があります。
大坂に 継ぎ登れる 石群を手ごしに越さば 越しかてむかも
「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」
引用 『日本書紀』崇神天皇