小学生と古墳を学ぶ
2024年10月30日1〜2校時目、校外学習。
浦間茶臼山古墳保存会会員が説明員となり御休小学校6年生、担任の先生と共に御休学区内の遺跡、古墳の勉強をしました。私たちが暮らしている地域には、意外と知らない遺跡が数多く存在しています。
子供達が学んでいる御休小学校隣、御休幼稚園のある場所は※『西祖山方前遺跡西祖橋本(御休幼稚園)遺跡』です。遠い昔から人々の生活の営みがそこにあったと知り、自分達に関係していると興味を持って聞いてもらえるように感じました。
日本遺産となった浦間茶臼山古墳が自分たちの学区内にあり、地元から学ぶことで古代史に興味を持つきっかけになってくれたらとてもうれしいです。
当日の内容
・浦間茶臼山古墳について
・御休学区内の遺跡について
・埴輪などについて
・質疑応答
※『西祖山方前遺跡西祖橋本(御休幼稚園)遺跡』
歴史的環境
西祖山方前遺跡および西祖橋本(御休幼稚園)遺跡は岡山市西祖に所在する。当地は、岡山藩領西祖村が、周辺六ヶ村(楢原、矢井、浅川、寺山、一日市、吉井)と合併して御休村(1888-1953)となり、さらに角山、平島の二ヶ村とも合併して上道町(1953-1971)へと発展していった経緯を持つ。
そして1971年、岡山市に編入され現在に至っている。大字西祖の名は、かつてこの地に禅宗西祖寺があって、地名を「西祖寺」と呼称したことにちなむという西祖地区は、北に山塊、南に独立小山塊、西に平島平野があり、そして東は約700mの至近距離を岡山三大河川の一つ吉井川が流下し、対岸には長船平野が広がっている。
吉井川はかつて現流路よりももっと東を流れていたが、それでも西祖の大半は吉井川の氾濫原的様相を呈し、常に安定していた土地は山塊縁辺の緩傾斜面に限定されていた。人の営みは、多分にそのような土地環境を求めて展開されていったと思われ、事実、この緩傾斜地帯に遺物の散布や遺構が兄いだされている。西の砂川と東の吉井川、そして南北を山で挟まれた極小平野。これが当地城の地勢的概況である。西祖地区は、律令制下には備前国上道郡に所属されており、岡山平野を中心とした勢力の掌握地域であったと思われる。現在も岡山市の東端に位置し、行政の中心からみると縁辺部にあたっている。はたして、西祖地区は行政・経済の中心地域の縁辺部とだけ位置付けられるような地域、として評価されるだけなのであろうか。
引用 1994年3月岡山市教育委員会「岡山市浦間・西祖地区における遺跡の展開」
現在、吉井川には高い堤防が築かれ、対岸の平野は直接視認できないが、築堤以前には長船町福岡など対岸集落と生活領域を共通にしていたと想定される。当地の歴史的位置付けについても、対岸平野を視野に入れた動向が求められよう。