万富東大寺瓦窯跡

東大寺再建瓦製造の窯跡

日本人なら誰でも知っている奈良の大仏で有名な東大寺の屋根瓦。その大量の瓦が岡山県万富(岡山県岡山市東区瀬戸町万富)で焼かれていたということを知っている人がどの程度いらっしゃるでしょうか。

また、窯を築き大量の瓦を焼くことのできる高い技術を持つ職人が万富の地に存在していたことを当時どのようにして知り得たのでしょうか。

岡山県東備地区は備前焼で有名ですが、昔から焼き物に適した良質な粘土を産出していたため、瓦を大量に作ることが出来たようです。製造された瓦は30万枚~40万枚と言われていますから大規模の窯跡です。1927年(昭和2年)に国指定史跡になりました。


史跡万富東大寺瓦窯跡


史跡万富東大寺瓦窯跡は、岡山県赤磐郡瀬戸町万富1962(現:岡山県岡山市東区瀬戸町万富)ほかに所在する。

JR万富駅の北方約400m にあたり、南北に細長い丘陵「大寺山」の西斜面に、連続して窯が構築されている。当該丘陵は、万 富の平野部北東端の丘陵地にあたり、その北方には、かつては山林を控え、東側には吉井川が瀬戸内 海へ流入する。良質な粘土の確保はもちろんのこと、燃料(木材)など原材料の確保が容易であった ことに加え、近くに製品運搬可能な水路を有しているという利便性が、当地に窯跡が築かれた要因であろうと考えられる。

「大寺山」は、丘陵項部の平坦面に共同墓地があり、一部指定地も含まれている。この墓地は、以前に「上の山」にあった墓地を明治10年頃に移転したものである。「大寺山」を囲むように江戸時代 につくられた田原用水が流れ、北西には阿保田神社があり、南西には半独立丘陵「上の山」がある。 阿保田神社前面には太田住宅地が立地し、かつては池であったと伝えられている。

「上の山」の北側裾には小さな公園があり、隣接する斜面に「東大寺瓦」が散布している。東裾か らも軒平瓦が採集されていることから、「上の山」を含むこの付近一帯が、東大寺瓦窯跡の範囲内に入るものと考えられている。 古代の万富地区は、磐梨郡蔵名郷に属している。もともとは上道郡に属していたが、天平神護2年(766年)に上道郡から藤野郡へ編入され、その後和気郡となり、延暦7年(788年)には和気郡のうちの吉井川以西の郷を割いて、磐梨郡がたてられている。元来、和気郡であったこともあって、この地は和気氏との関わりが強い地域といわれている。

一方、奈良時代に国の富をそそいで創建された東大寺は、治承4年(1180年)に平家の南都焼き討ち により延焼する。翌年には、後白河上皇の命を受けた俊乗房重源(当時61歳)が、朝廷や鎌倉幕府の支援のもとに東大寺の再建を開始している。 備前国は、建久4年(1193年)に東大寺造営料国となり、この頃に東大寺再建のための瓦製造窯が万富につくられたと思われる。

「南無阿弥陀偶作善集紙背文書」には、建仁3年(1203年)7月に備前国 から東大寺に納められた物を記述してあり、吉岡郷(現在の万富地区)、物理保(現在の瀬戸地区)の地名や「吉岡御瓦」の字句がみられる。 東大寺瓦窯操業時の吉井川は、万富平野部に入り込んでおり、「大寺山」の南にある久津山の西を抜け、南方藁菰社の東を流れていたと考えられている。また、「大寺山」南端には、瓦を積み出した 港(梅遺跡)があったと推定されている。

町内には、重源上人に関係すると考えられる遺跡が残されている。「保木の施湯跡」「南方の銅精 錬所跡」がそうであり、吉井川倉地沖では、砂利採集中に多数の「東大寺瓦」が採集されている。また、瀬戸町と熊山町の境には、壊爪神社(保木)と熊野神社(熊山町)が並んであり、宋様式の石獅子が1体ずつあった。一体は行方不明であるが、もう一体は鈴と垂師がついた首輪をはめ、後脚で鞠を踏む小獅子を抱いた石獅子であり、現在、岡山県立博物館に保管されている。重源上人は、宋人を東大寺再建事業に起用して大仏修造を実施しており、「東大寺瓦」を運搬した吉井川に面するこの地に、安全を祈願してこの石獅子が奉納されたものであると考えられている。





出典・引用 史跡万富東大寺瓦窯跡確認調査報告書2003 -岡山県瀬戸町教育委員会-